かつて湯治・自炊の宿、また行商人の宿として愛されてきた小さな旅館、小島屋旅館。創業は明治12年、実に140年を超えて磯部の地を見守っています。
大正15年~昭和元年にかけて出来たというお風呂は、まさに大正の風を感じる造り。濃厚な磯部のお湯が溢れ出し、じんわりと身体を温めてくれます。
今回は、ここ小島屋旅館の7代目女将、原田三重子さんへのインタビューを行いました。大学受験失敗、夢だけに終わったフランス留学、そしてパン職人……そこから磯部最古の宿を営むことになるまでの経緯、そして個人的なお話まで。
──いろいろ伺いたいことはあるのですが……まず、旅館業を継ぐ前のことから聞いてみたいです。
「私はここで生まれて、ここで育ちました。でも私は旅館の仕事には興味がなく、見ず知らずの人が入ってくるのもなんとなく怖くて……まあ、本来旅館とはそういうものなんですけど(笑)。落ち着いて食事するなどの家族団らんの時間もあまりなくて。だからサラリーマンの家庭に憧れを抱いていましたね。」
──やっぱり旅館のご家庭は忙しいのですね…。学生時代はどんなふうに過ごしましたか?
「高校は『大学に進学するのが当然』という空気のある進学校に通っていました。特にこの仕事がしたい、といった希望はなくて、なんとなくいい大学ばかり受験していたら落ちてしまって。先生からは短大だったら推薦枠があるよとすすめられたのですが、行く気になれず……。」
──当時の大学は全体的にレベルが高かったと聞いています。
「今と違って女子でも浪人するのが珍しくない時代でした。ただ私には浪人する根性もなく、ただ憧れだけでフランスに留学したいなあと考えていました。それで、神田のフランス語専門学校に行くことに決めました。」
──おお、フランス!いいですね。行ってみたい…
「ただただ『家から出たい』ということしか頭になくて。ところが親に『お前みたいな甘い人間は東京で騙されるから、家から通いなさい』と言われ、下宿が許されなくて…」
──厳しい(笑)
「まあ、そもそもフランス留学自体も口実だったので何も言えず。2年間通ったのですが身が入らず、やっぱり普通のOLになろうかな〜と思って就職を考えました。
それで、就職試験を受けるまで半年くらいあって、その間にアルバイトをしていたパン屋さんにスカウトされたんです。でも私はOLになるのでパン屋さんの社員にはなれません!と断りました。でも『じゃあ半年の間だけ!別の会社に就職が決まったら辞めてもいいよ!』と言うので、ひとまずそのパン屋さんで働きながら就職活動をすることにしました。
まあ結果的に、結婚するまでずっとパン屋で働いていたんですけどね(笑)。」
──キャリアの急カーブがすごいですね。パン屋さんではどんなお仕事を?
「最初はパンの販売員をやっていました。1個55円くらいだったかな。でもそれでは暗算が得意になるだけでスキルアップしないなあと思って、本格的なパン作りを習ってみたいと店長に相談しました。デパートのイートインコーナーが流行っていた頃だから、そこでパンを焼く職人になりたいなと。
思えば、母も私も昔からパン作りが好きで。他にもぬいぐるみとか、物を作ることが大好きだったんです。」
──OLにはなれなかったけど、昔からの念願が叶った、というわけですね。
「パン作りは女の子には務まらないよとか、工場で修行しなければならないから無理だよとか色々言われたのですが、どうしてもパン職人になりたいと思って専務に直訴したんですよ。それで、2年くらい本社の工場でパン作りを学び、伊勢丹デパートのパン職人になれました。楽しくてやりがいのある仕事でしたね。」
「ふたりの母」を同時期に失い、気づけば7代目女将に
「パン工場で出会った人と結婚して、名字も小島から原田になりました。子供ができてからは専業主婦になって、主人はパン屋勤務で。最初、実家に近いところでアパートを探したのですが家賃が意外に高かったので(苦笑)、ここの空いている部屋に住みながら住む場所を探すことにしたんです。結局、今も住み着いていますが。」
──それでも、継ごうとは思わなかったのでしょうか…?
「忙しそうなときだけ少し手伝っていましたが、本腰入れて継ごうとは思っていませんでした。親も『旅館にこだわらなくてもいいよ、もし継いでくれるなら嬉しいけど』と言っていて。
でもやっぱり、大変そうだなあとは思っていました。旅館はやめて、私たち夫婦でパン屋を開こうかと思ったくらい。」
──確かに、おふたりともパンをつくる技術はあるわけですもんね。
「でも、主人は堅実で。忙しくても暇でも同じ給料が貰えるのが会社務めのメリットなんだって。当時は『つまんないの〜』と思いましたが、まあ結果的にパン屋はやらなくてよかったですね。パン屋はパン屋で朝から晩まで忙しいし、私は作るほうではなくてレジ担当になるだろうし。」
──そんな原田さんも、現在では女将として働いていらっしゃいますね。どんなきっかけがあったのでしょう?
「平成9年3月に、母が急死したんです。基本的には母と伯母の2人で旅館を切り盛りしていたので……もう片翼をもがれたような感じで。
しかもその2年後、今度は伯母も亡くなったんです。あれよあれよというまに経営者がいなくなっちゃって……。」
──なんと……。
「どうしようかなあと思って。旅館業の継承の手続きが必要になって、保健所とか警察とかから書類がいっぱいくるわけです。
で、よくわからないから全部保留〜!にしていたら、手続きの期限が切れちゃったんですよね。あらま、大変!と県職員の知り合いに協力してもらって、全て私の名前で取り直しました。だから、あたふたしながら女将になっていたというか。」
──いざ旅館業を継ぐことになって、最初はやはり大変でしたか。
「まだ子どもが小さく、子育てで手一杯で。とにかく夢中でやっていましたね。送り迎えもある中、どうやって時間をやりくりしていたか自分でも思い出せません。」
──お客さんはその頃から多かったのでしょうか?
「いえ、うちは小さい旅館ですから、最初はお客さんも少なくて。でも、名刺やパンフレットを作っていろいろな集まりに出ていって配ったり、お客さんが知り合いを連れてきてくれたりして、少しずつ増えてきました。
同時に働き方にも慣れてきて、効率的に動けるようにもなってきました。手間を掛けるところ、それほどかけなくても良いところのノウハウが身についてきたというか。ほんとうに、これまでに多くの方に恵まれて育てられてきましたね。」
──過去仕事をしてきた中で、特に印象的なエピソードはありますか。
「以前、松坂屋さんという旅館があったのですが、そちらが廃業されるということで、そこのビジネスのお客様がうちに移って来てくれて長期間泊まってもらっていたことがあります。週末はご自宅に帰られますが、15年くらい居てくれたんです。ひとりでもお客さんがいらっしゃると食事のメニューをあれこれ考えるので、仕事のモチベーションになりましたね。」
──確かに、他の作業はルーティンだとしても食事だけはバリエーションを作る必要がありますよね。
「週末は宴会が多いんですけど、それはまた別の頭で取り組まなきゃいけないので大変ですね。でも、考えることとお金を使うことは大好きなので(笑)、毎日仕入れに行けるのは楽しいです。」
動けるだけ動く、やれるところまでやる
──最後に、これからのことについて伺いたいです。いまのところ後継者は…?
「子どもたちに過度な期待はしていません。私だって、親が亡くなってあたふたしながら継いだわけですから。子どもは3人いますが、とりあえずは自分が頑張れるだけ頑張ってみようかなと思っています。その先は自分でも分からないですね。」
──この歴史ある建物は、ぜひ残って欲しいところですが……。
「よく人から『こういう旅館は残したほうが良いよ』と言われますが、なにしろ建物が古くて、問題が山積みの旅館なんですよ。建て替えとなるとお金もかかりますから……。」
──うーん確かに、耐震の関係でいろいろ厳しいですものね。
「だから、動けるだけ動いて、どこかで終止符を打ったほうがいいんじゃないかと思ってます。私がやれるところまでやれば、母も伯母も『よく頑張ったねえ』言ってくれるんじゃないかな……と。」
──ふたりの母の存在が、原田さんの原動力になっているんですね。
「ふたりが生きている間に『私が旅館をやるよ』と言ってあげられなかったのは心残りですけどね。ですからこれからも供養のつもりで、できることをやっていこうと思っていますよ。」
Information
創業明治十二年 磯部温泉小島屋旅館
・住所:群馬県安中市磯部1丁目13-22
※小島屋旅館の宿泊予約は電話のみ。インターネットでは受け付けていません。